華麗なるギャッツビー

映画を観に行こうかという朝、図書館に寄ったら書架にレイ・ブラッドベリ「猫のパジャマ」という本を見つけた。

あーら、レイ様。随分お可愛らしい題名ですのね? 手にとってみて、前書をパラ読み。

自分の好きな作家の名前を数人挙げて、…彼らを妬んだり羨んだことはない。ただ図書館の本棚で彼らの仲間に入りたいと思っていただけだ。(とレイ様は言う)

特にフィッツジェラルドについて…彼を彼自身から救うため、タイムマシンを発明しては何度も過去へ遡り、助言を与えた。最も重要なアドバイスは「映画業界には近づくな!」(とレイ様は言う)

 

でも二人の死後に、映画化されてしまっているようですよ?

 

そんなわけでグレート・ギャッツビー。

バズ・ラーマン監督と言われて観ると、実にバズ・ラーマンらしいカメラワークなような気がする。イメージはムーラン・ルージュ

やたら紙吹雪が舞ったり、カーテンがドワーッはためいたりしていたが、後から考えれば3D版のための効果だったか! ごめん、3Dは観るという選択肢すらなくていつも忘れてしまう。

 

映画は長いわりには面白かった。コミカルなところはコミカルに、叙情的なところはそれなりに、イメージするフィッツジェラルドらしさがあって、ナルシシズムと甘い感傷の讚美、やれやれ…と呆れながら気持ち良く浸る。自分の傷口だけは膿んでいても甘美なものだ。

しかしステレオタイプな俗悪を軽蔑する主人公をこそ俗悪に感じる。…つまりその価値観こそが既に短絡でお手軽ということだ。その感傷とその価値観が発見されてから時間が経ちすぎており、使い尽くされてしまって、もう上っ面にしか感じられない。

また、もう1巡りして今時代はグリード・イズ・ビューティフルではないかしらん…

 

そんな中でディカプリオが頑張っていなかったとは言わない。作家の「それは極上の笑顔だった」などという、ナレーションをバックにアップの笑顔!! とかいうシーンは、演技どうこうというよりイジメ? と埓もなく考える。

かぐや姫が絶世の美姫なのは小説の特権! みたいなものだろう。文字で「極上の」と言えば万人にとって極上に違いないが、実物を突きつけられたら評価は千差万別になる。極上のみならずそこに「率直に心を預けられている気分になった」と駄目押しというほかない描写を重ねられ、いっそ笑顔がひきつって見えた。

そんな中で様々に演じんとしていたのは確かで、たいへんよく頑張りました、の二重丸は差し上げたい。

 

それにしても、彼は(というのはギャッツビー)、戦時の英雄にも大富豪にもなったのに、結局は一体何に破れたんだろう。女? 馬鹿な女? そんな女を選んだ自分? 自分の中にしかいない幻想を女に重ねて愛し女に幻想の通りをなぞらせようとした愚かさ?

理想を求め続けたこと、ただ美しいものだけを希求していたことをもって、作者はギャッツビーを偉大だと讃える。だけど、随分独善的なだけにも思えた。

愛していると執着を見せた女に対しても、あなたはこう想っていたはずだ、と決めつけたが、実際はそうではなかった。こうあって欲しい、と望まれるだけならまだしも、こうであるはずだ、と決めつけられた時に、そうではなかったのだから、女からすれば「貴方の愛しているその人は誰?」という話だ。自分ではないのだから。

確かに女は彼を捨てはしたけれど、女が彼の幻想の実在にならなかったからといって、それ自体は責められる筋合いもない。ある意味、真の彼女は彼に選ばれもしなかったのだから彼女が去るのも無理はない。結局恋愛感情というものは、自分に都合のいい幻想を投影できる相手に、幻想が壊されない範囲で執着するということに尽きる。ギャッツビーにとって彼自身が主役であるように、女には彼女自身が主役なのだから、彼のためのロールプレイヤーになってくれないことなんて当たり前すぎる。

それでもお互いの幻想が合致していたころの二人の恋は、可笑しく可愛らしいものだった。それがどう歪んで、終焉を迎えるかまでが、結局はこのギャッツビーの人生の要約すべてなのだから、恋は人生の華ですな。

 

ところで「猫のパジャマ」と言うのは、素晴らしい人(もの)のことをいうらしい。

グレート・ギャッツビー。猫のパジャマなギャッツビー。…悲壮感がなさすぎてそぐわないか(笑)

ちなみにレイ様の巻頭献辞は「いつでも猫のパジャマだったマギーに」とのこと。

亡くなった奥さまがマギーさんです。